2007年07月19日

潜在意識の働き-1

《潜在意識の怖さ》

潜在意識の働きにについては過去に(http://hyperreiki.seesaa.net/article/26451886.html) から3回に渡って触れた事があった。

今度は少し視点を変えて潜在意識について考えて見たい。

特にハイパーレイキ(R)においては、潜在意識のコントロールと潜在した能力の開発と言うのは非常に重要なテーマである。

しかしその内容に触れる前にもう少し触れておかなければならない事がある。

それは潜在意識の怖さについてである。

私自身、セラピストとして多くのクライアントが抱える問題と対峙してきたが、 その殆どが潜在意識にインプットされたネガティブな情報やプログラムが原因であると言う真実がある。

言い古された事例ではあるが、至極わかりやすい例として先ず『犬が怖い人』の話をあげる事ができる。

生まれながらにして犬が怖いと言う人は先ずいないだろう。

しかし乳幼児期に何らかの出来事で犬に対しての恐怖心が生まれ、それが潜在意識にインプットされると、 その原因となった出来事が表面の意識(顕在意識)から忘れ去られていても、 犬を見るだけで潜在意識が怖いと言う感情を引き起こすと言った反応を示す。

この犬の出来事を、高い所に関わる怖い体験に置き換えると高所恐怖症となるし、その他にも、好きなタイプや嫌いなタイプ、好きな曲、 嫌いな曲その他、怖い、心地よい、好き、嫌いなどおよそ個人の内面で何かが引き金となって繰り返される反応は、 潜在意識の中から引き起こされる反応だと言える。

一見関連性が無いように思われるかも知れないが、子供が不登校に陥る事にも、この潜在意識の反応が関与している事が多い。

私が今関わっている子供のケースでも、宿題をきちんと提出できない子供に、担任がマイナス点を付け続けた事で、 学校へ全く行かなくなったというのがある。

教師側の論理では、宿題を出さない事はマイナスだから、こう言う評価は間違っているとは言えないが、 毎日マイナスを付けられに学校へ行くのなら、子供としては行きたくなくなるのも止むを得ないかも知れない。

その子の親は担任に対して、せめて出来た部分はプラスとして評価してやって欲しいと頼んだそうだが、 それは頑として聞き入れられなかったと言う。

これもすらも頑なな担任の価値観、すなわちその人の潜在意識にインプットされた柔軟性を欠いたプログラムの作用に過ぎない。

反面私達が何の意識も用いずにまるで呼吸をするかのように車の運転が出来るのも、 長年の習慣によって一連の運転手順が潜在意識にインプットされているからであり、優れた演奏家が見事な演奏を聞かせてくれるのも、 その人にインプットされた潜在意識の中のプログラムの働きなのである。

このように、良くも悪くも私達は気づかないうちに潜在意識にインプットされた様々なプログラムにコントロールされていると言える。

これをマインド・コントロールと呼ぶのであり、マインド・コントロールは決して悪いものだけでは無いことが理解できる。

ところが、この潜在意識にインプットされたプログラムの中には、私たちを困らせたり苦しめたりするものが沢山あるのである。

例えば止めたくても止めれないものの多くが、この潜在意識にプログラムされてしまっている。

具体的には、タバコ、酒、薬物、そして食べ物の好みや量など、様々な生活習慣などの全てがそうなのである。

タバコも、酒も、薬物も、それらに依存すると言うプログラムが潜在意識に出来上がっているから止めにくいし、 それらのプログラムを意思(顕在意識)の力だけで無理やり押さえつけていると、例えそれが1年以上抑えられていても、 簡単なきっかけで見事に崩れてしまうのは、結局依存すると言うプログラムが潜在意識に残っているからに過ぎない。

私の例で言うと、私は元々タバコを吸っていた時期があった。

徐々に量は減らしていたのだが、例えばお酒の席で側の誰かがタバコを吸うと、つい欲しくなって吸ってしまう事があった。

これは店の雰囲気、酒、そしてタバコ≠ェ結合して私の潜在意識にプログラムされていたからである。

ところがある時にひどい急性上気道炎をやり、極端に呼吸器系が弱くなってしまった。

その後タバコを吸うと、鼻や喉に不快な症状がしばらく残るようになってしまったのである。

何度タバコを吸っても、この不快な症状が出現する。

そしてこの不快さが、店の雰囲気、酒、そしてタバコ≠ニ言う結びつきによる、タバコを吸いたいと言う反応に勝ってしまい、 そのプログラムを置き換えてしまったのである。もちろん日常的にはタバコを吸っていなかったと言う事が幸いしている。

それ以来私の潜在意識では、例えその場所が居酒屋でも、近くでタバコを吸われると腹が立つ と言う反応に置き換わってしまったようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年07月12日

遠隔ヒーリングについて

《遠隔ヒーリングって?》

多くのレイキでは第2段階のレベルに達すると、遠隔ヒーリングが出来るようになる≠ニ謳っているところは多い。

或いは既成宗教の中でも加持といって遠隔ヒーリングを行う宗派や寺院もある。

そしてその効果については『効くものもあれば効かないものもある』のである。

効かないものは論外として、確かに効果がある場合がある。

 

私自身のもつケースでも遠隔治療で症状の改善を見たケースは多い。

 

但しこれが厳密に遠隔治療によるか否かを証明する事は困難なので、あんまりおおっぴらに触れる事はなかった。

ハイパーレイキ(R)協会では東京城東支部のホームページを経由して、仙台支部の横山支部長に動物、 人を問わず遠隔ヒーリングを主に担当していただいている。

 

では何故遠隔ヒーリングが可能なのかについて、少しだけ触れて見たい。

このメカニズムは遠隔知(遠隔視)、や未来予知などと共通したメカニズムを持っている。

よくテレビのキワモノ番組などでやっている失踪者探しなども、全く同じメカニズムである。

要するに個々の人間や動物を結ぶ媒体があるから、こういった事が可能となるのである。

 

そしてハイパーレイキ(R)ではその媒体の中で、ある種の操作をする事を理論を踏まえて学ぶ訳である。

しかし特にハイパーレイキ(R)を学ばなくても、他の方法例えばイメージを使ってそう言う操作をする方法もある。

ただハイパーレイキ(R)の方法の方がより確実だと言うだけである。

 

方法論さえ判れば未来予知でも、遠隔知(遠くの情報や映像を見る)でも、誰でも出来ることなのである。

 

それをことさら取り立てて超能力や、霊能者だと騒ぎ立てるマスコミも馬鹿げているが、 それに乗って突然生き神様や生き仏様になる人間がいるから面白い。

 

そう言うことをキワモノ的に扱うより、何故そう言うことが出来るのかと言うメカニズムを考える番組を作って、 1億総超能力者にしてしまえば良いのにと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年06月29日

ハイパーレイキ(R)協会公式ホームページ

《ハイパーレイキ(R)協会の公式ホームページ(仮運営)が出来た》

ハイパーレイキ(R)協会の公式ホームページ(http://www.hyperreiki.com/)が出来た。 といってもまだ仮運営である。

今まで明確な組織的としての運営形態を持っていなかったので、 この7月1日からハイパーレイキ(R)協会として新たに発足する事になった。

協会の設立主旨は(http://hyperreiki.seesaa.net/article/44013230.html) で示したとおりである。

 

今まで支部長・教師として活動していた方や、一般の教師として活動していた方々には6月23日に説明会を行い、 協会の設立主旨に賛同していただいた方だけに新たに協会に登録していただき、 今後ハイパーレイキ(R)の教師として活動していただく事になった。

(注:7月1日以降ハイパーレイキ(R)協会に未登録の支部、教師は今後一切その活動が出来ません。)

 

本日現在まだ未登録の支部もあるが、いずれは全支部が目的意識を持ち、足並みを揃えてまた新しい歩みを始める事ができるであろう。

個人が生きていく上で、自分の人生に明確な目的を持って生きるのと、 全く何の目的も持たずに毎日を送るのとではその人生の価値には随分の開きが出ることだろう。

 

しかし組織も全く同じだと思う。

特に目に見えないサービスを提供する場合、提供する側にちゃんとした目的と言うか、理念と言うものが徹底していないと、 中身は希薄なものになってしまう恐れがある。

 

企業なら口先だけでない企業理念が、社員一人ひとりに徹底しているか否かは非常に重要である。

ところが最近の日本の企業は口先だけで中身が伴っていないケースが多い。

最近マスコミを賑わしている北海道のなんとかミートなどがその例である。

ちょうどその事件が報道される前の6月13日のこのブログ(http://hyperreiki.seesaa.net/article/44691113.html) でも食べ物の事に触れたのだが、まさに予想どおりのすごい企業がなんとかミートだった。

 

そんなことはともかく、私は目に見えないサービスほど理念、目的をしっかり持つ必要があると感じている。

 

そして目的が不鮮明であると、とかくオカルト的になりやすいのが宗教と気≠フ世界なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年06月27日

察すると言う事

《一を聞いて十を知る》

つい最近同年代の人と話をしていて次のような話題になった。

「最近コミュニケーションの難しさを感じる事がよくある」と言うのである。

具体的に言うと、どうも若い人と話をする時、一から十まで細かく言わないと話が通じないと感じる事が多いと言うのである。

 

通常常識的な判断が出来る相手ならば、ある出来事(例えばa)に関するコミュニケーションがもたれた後、 それに関わる事で何らかの変化(a+b)があったとすると、その前の出来事(a)については省略しても通じるものである。

しかしそのためには相手側にこちらの状況や立場を、過去のコミュニケーションをある程度さかのぼって推察し、 現状と突合せすると言う作業が出来ないと良好なコミュニケーションは困難である。

結局また最初の話から、「aなんだからその結果はbになります」と事務的に説明しなおさなければならなくなってくる。

この場合、一から十まで言わない側が言葉が足らないから悪いのか?、それとも相手の状況を察する事の出来ない側が悪いのか? と言う議論も成り立つが、実際のところはどちらが悪いと言うように考えるのではなく、 相手の脳力に合わせて通用するようにコミュニケーションの方法を変えるしかないのだろう。

以前ベテランの高校の教員と話をしていたときにも「いまどきの子供は話が通じない」と言われた事がある。

確かに私も毎週仕事で高校生と接する機会があるので良く判るのだが、こちらが本当に聞き取りたい事がある場合は、一つの事柄に対して、 何通りかにスタイルを変えてコミュニケーションを取らないと事実が聞き取れない事が多い。

そしてこちらの言いたいことを伝える場合にも、 やはり彼らのどこかにアクセスできるまで何度も言い方を変えてアプローチしなければならない。

ところがこの現象は高校生に対してだけではなく、20代30代の教員に対しても同じ事が言えるらしい。

昔から「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」と言う言葉があるが、学校の先生に限らず、 自分に培われた何ほどのものがある訳でも無いのに、 早くから立場的に先生と呼ばれる様になると謙虚さというものを持てなくなる人が多いのかも知れない。

我々から見ると生意気にしか見えないから、判っている人からは結局まともに相手にして貰えなくなる。

いずれにせよ、相手の状況を察すると言う事はコミュニケーションを取る上で非常に重要な事なのだが、 それが出来ない人が増えている事は悲しいことだし、また今後の日本にとって非常に重要な問題である。

 

一を聞いて十を知る≠ニ言う事は、決してその人の頭の良さだけを言うのでは無く、 コミュニケーションの中でどれだけ相手の状況や現実を理解する能力があるのかと言う事を示しているのだろう。

現実には一見頭が良さそうに見える人でも、三を聞いて一しか理解できない人も多いのだから。

困ったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年06月20日

早起きすると

《早起きすると》

最近また早起きする機会が出来てきた。

きっかけは子供のマラソン大会出場である。

中一の子供は学校では陸上部に属しているが、入部当時は中距離を目指していたのだが、トラックを走ると目が回ると言い出して、 結局走り高跳びを選んでしまった。

私はまだ中学生だから色々な種目をやるのだろうと思っていたのだが、指導者の方針か?決まった種目を中心に練習しているようである。

7月1日に山陰地方で行われるマラソン大会に出る予定があるので、先日久しぶりに3キロのタイムを測りに河川敷に出かけたら、 なんと呼吸困難を起こしてチアノーゼを出してしまった。

タイム以前の問題である。

元々喘息を克服する目的で始めたマラソンだったので、これでは何の為に陸上部に入ったのかが判らない。

そこで子供も危機感を感じたのか、早朝に個人練習をやりたいから、私に自転車で伴走をしろと要求する。

私は最近早起きするのがとても苦手になってきていたので、「起きれたら付き合ってやる」と言ったのであるが、面白いもので、 早起きする目的がはっきりするとこれが案外起きやすくなるのである。

もちろん雨の日は休みであるが、今日などは5時15分に起きて河川敷まで自転車で行き、子供の練習に付き合う。

たまたま今日は子供の体調が悪く、前半1キロの手前から腹痛と脚の痛みを訴えだした。

特に今日は起き抜けすぐで、アップもそこそこに走り出したのだから当たり前といえば当たり前である。

子供にウォーキングに切り替えるように指示し、私は自転車に乗ってゆっくりと行くことにした。

石川の河川敷は自宅からすぐ近くなのだが、子供のマラソンなどに付き合う以外には最近滅多に来る事が無い。

 

ウォーキングをしている子供は放っておいて、 早朝の河川敷を散歩よろしく自転車でゆっくりと進んでいくと普段ただ走っているだけでは気づかない物が見えてくる。

先ず目に付いたのは鳥たちである。

いつもは川面に浮かぶ鳥が目に入るのだが、 今日は名前は知らないけれどサイクリングロードのすぐ側の植え込み付近を飛び交う鳥が目に付く。それも何種類もの鳥たちが。

そして次は河のはるか向こうに連なる金剛や葛城の山並みが目に付く。

時々後ろから来る子供を思い出して待ってやるのだが、リードを離して犬を連れている人を見て「うちは犬とちごて子供を連れてるんやな」 と子供に声を掛けると、しんどいと言っているくせに「リード付けとかんとどこ行くかわからんで」減らず口が返って来る。

大会まであと10日あまり。

雨の日もあるからどれくらい走りこめるかは判らないが、子供のおかげで早起きさせて貰った事に感謝しながら家路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年06月13日

食べ物のこと

昨今、私たちが日常が口にするものの信頼性が崩れだして来ている。

先日も大学時代の友人達と会って、たまたまそう言う話題になった。

話題の発端は、日本の食糧の自給率の事だったが、そこから海外に依存している事の危険性に話が至った。

 

例の中国の事件はまだまだ広がって行きそうだが、表面に上がっていない問題ももっとあるだろう。

輸入された野菜など、その栽培過程でどんなに危険な農薬を、どれほど大量に使用しているのかは判らない。

アメリカの牛だって遺伝子組み換え作物だって同じ事が言える。

特に日本向けに生産されているものなら、さらにその危険度は高まるだろう。

 

30年以上前になるだろうか、青森のりんご農家でりんごの皮を剥かないで食べていた子供達に健康被害が発生した事があった。

これはりんごの皮に残留した農薬が原因だったのだが、ああ言う被害があったから日本では多少は農薬の使用を抑えたり、 農薬の危険度を下げるような努力もされているのだろうが、案外農薬に身近な立場の人ほどその毒性に無頓着なケースが多い。

 

従って日本の食糧自給率が100%になったとしても、それに伴って安全率が著しく向上するとも思えない。

 

また加工食品においても同じ事が言える。

不足した栄養を補うために摂取するサプリメントでさえ、継続的な摂取による体内での重金属の蓄積が懸念されると言う。

最近はそう言う部分の安全性をうたった高額なサプリメントをネットワークで販売する組織も増えているが、 果たしてそれを全て鵜呑みに出来るかどうかもはなはだ疑わしい。(信じたい人は信じれば良いが)

 

品質管理と安全性を売り物にしている通信販売の化粧品が、『買ってはいけない』にノミネートされていたのも記憶に新しい。

 

雪印や不二家はたまたま発覚しただけで、見つからなくってほっとしている食品メーカーは数え切れないほどあることだろう。

「雪印や不二家なんて可愛いものさ、うちなんてもっとすごいぞ」と自負している企業や、個人商店はもっとあるだろう。

 

こうなると、我々に残された選択肢は限られてくる。

 

100%自給自足で、自分達の食べるものは自分達で作るのである。

もちろん土地は農薬や廃棄物などで汚染されていない土地を探す。

そしてその食べ物を作るために、農作業や家畜の肥育をして日々を送るのである。

もちろん魚を食べたい場合は、自分で釣ってくるしかないのである。(但しこの場合は海や、河の汚染は考慮に入れない)

 

もう一つは、考えられる限り安全な食物だけを徹底的に吟味し、金に糸目をつけずに、 味にはこだわらずに安全だけを重視した食生活を送るのである。もちろん養殖の魚なんて絶対に口にしてはいけない。

 

さらにもう一つは、とりあえず悪いと判っているものだけは避けて、後はあまり気にしないで運を天に任せて生活するのである。

 

こう言う風に考えると、いつから日本はこんなに住みにくい国になったのだろうか?

 

年金問題のように、平気で国が国民を裏切り、食い物にする。

もちろんこれなど氷山の一角にすぎない。

口に入れるものだって安心して食べれる物は殆ど無い。

 

民族間で殺し合いをしている国よりはましだと言えばそうかも知れないが、日本のこの状態だって正常な国家とは言えないだろう。

 

こうなったら国に期待するより、個人が自立した生活を送ることを自覚する以外にはないのだろう。

もちろんこの場合の自立とは、与えられた環境の中で自己防衛をしながら、前向きに生きていくことを言うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年06月08日

福祉について考える

《予想通り》

最近テレビを賑わせているのは、行方不明の年金と、○ム○ンの事である。

 

かたやお上でかたや民間の事案であるが、この二つの事案には大きな共通性がある。

 

先ず福祉に関する事案について考えてみると、この福祉と言う世界には絶対参入してはいけない人種や企業があると言うことである。

このことはこの企業がこの事業に手を上げた時から予想できていた事だった。

 

私は日本で3番目に古いと言われる知的障害者の施設の評議員を勤めているが、 ここは創設者の意思をついで今3代目の理事長が運営に当たっている。

この施設などでも最近の相次ぐ福祉に関する法改正に対応すべく、新しい施設を建てたり、或いは作業者向けに設備を導入したりして、 運営の健全化の為に経営者から全ての職員に至るまで非常に苦労している。

また理事長は施設から出る給料を全てその施設に寄付と言う形で還元し、 自分は大学に席を置いてそこから出る給料で自分の生活をやりくりしているのである。

これは誰にでも出来ることではない。

一方、○ム○ンのように、新規参入でこの福祉業界に入ってきた企業や人(私はこれをにわか福祉と呼ぶ)の中には、 いかにうまく立ち回って(ごまかして)国からの助成金を騙し取るかと言う点に焦点を当てて入り込んできた輩がわんさといる。

こう言う輩は税金から直接給料を貰っていないだけで、まさに立派な税金泥棒なのだ。

国がなめられているのは仕方が無いとしても、国民も欺かれている事を忘れてはいけない。

従って我々国民はこう言う企業の存在を絶対許してはいけないのである。

 

先に述べた知的障害者の施設などは、90年ほど前に、創設者個人が私財を投じて土地を購入し、建物を建てたところから始まった。

自分の存在の全てを知的障害者の療育に捧げると言う創設者の志から全てが始まり、それが3代に渡って受け継がれているのである。

これを同じ福祉業界と言うくくりで、○ム○ンと比べるのはあまりにも失礼な話なのだが、 少なくとも福祉に関わるためにはこう言う高い志が無ければ長く継続していくことは難しいのである。

 

○ム○ン以外にも地方都市によく見られるにわか福祉のパターンに、地方政治家の肩書き作りの為に運営されている施設がある。

私が直接知っているケースも2,3あるが、絶対福祉には関わって欲しくない人種が実質的な経営権を握っているケースである。

片手で土建屋さんをやって、談合談合で公共事業に入り込み、選挙資金を作り、もう一方の手で肩書き作りの福祉施設を経営する。

これで両手を天秤にするとちょうどバランスが取れている、と本人は思っているのだろうが、とんでもない話である。

 

《志:こころざし》

以前私のハイパーレイキの講習を受けた方の中に、生前のマザーテレサと直接会い、話をしたという貴重な経験を持つ人がいた。

彼女が「マザーテレサから非常に強いエネルギーを感じたが、なぜだろう」と私に聞くので、私はとっさに 「それは彼女が自分の役割を完全に理解し、それに徹している(回路になりきっている)からではないですか」と答えた。

その時私はマザーテレサの事を殆ど知らなかったが、あとで彼女の事を書いた本を読む機会があり、その時の会話を思い出したのだが、 その時の私の回答は、あたらずと言えども遠からずであった。

 

裕福な家庭に生まれ、何不自由なく生きていけたにも関わらず、自らの人生を不遇な子供たちの為に捧げたと言う生き方は、 福祉の世界におけるナイチンゲール的な存在である。

福祉に関わる人々の全てにマザーテレサになれとは言わないが、せめて志≠セけでももう少し高くもっていただけたら、 腐肉に群がるハイエナのような行為は無くなるのではなかろうか。

また公務員にもなってはいけない輩が多すぎるのだと思う。

要するに公僕:奉仕する者≠ニして、もう少し高い志を持った人々が沢山いれば、 今回の年金問題のようなお粗末な事案は回避できたのではないだろうか。

 

私を含めた多くの日本の国民が、自分が日本に生まれた事に誇りを持てる日が、一日も早く来ることを望まずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年06月06日

ハイパーレイキの目指すもの

私が単なるレイキから脱却し、ハイパーレイキと言う名称を用いて活動を始めてから、おおよそ10年近い月日が流れた。

それに至る経緯は過去ログに記してあるが、 ここに来てハイパーレイキが今後どういう方向を目指そうとしているのかをはっきりと示さなければならない時期に来ていると思うようになった。

それはハイパーレイキと他のレイキの違いが、単にハイパーレイキが優れた理論体系を持っているとか、 或いは他のレイキとは伝授効果に差があると言うだけではなく、ハイパーレイキを身に付けた人がそのことをきっかけとして、 もっとより良い人生を送れるようになるための次のステップを示さなければならない時期に来ていると感じたからである。

 

要するに長い人生に役立つツールとしての立場を、もっとはっきりとしたいと考えたのである。

 

もちろんそれは単にハイパーレイキを身に付けると言うだけにはとどまらない。

 

たまたまこの6月16日に、ハイパーレイキの教師資格を有し、かつ現在活動を展開するか、 もしくは今後積極的に活動をしたいと言う方々を対象として研修会を予定している。

 

その日を目標にして、現在ハイパーレイキの誕生から今日までの総括と、今後の指標を明示するための作業を進めているが、 一旦ここで整理する意味も込めて、大まかな目標を記すことにした。

 

《ハイパーレイキの目指すもの》

単純に言ってハイパーレイキが目指すものは、セルフ・コントロール∴スいはセルフ・ヘルプ≠ヨの導入であり、ハイパーレイキ を基礎として、さらにもっと広く、深く、より多くの人が、積極的かつ自律的な人生を送るための知識と方法を提供できる存在となる事である。

私はこのセルフ・コントロール≠竍セルフ・ヘルプ≠現代における悟り≠竍解脱≠セと位置づけている。

悟り≠竍解脱≠ニ言う言葉を使うと、即宗教と結び付けてしまう人もいるだろうが、本来悟り≠竍解脱 と宗教とは別のものであり、その事を知る人は少ない。

釈迦が仏教を説いたその主旨は、現世において人間がより良く生きる方法を示す為であったが、まさに私はハイパーレイキを入り口として、 人が自由に、自立的に、積極的に生きていくために必要な知識と技術を学び、そして実践方法を身に付けられる存在として、 このハイパーレイキを位置づけ、方向付けたいと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年05月29日

法と正義

《弁護士は必要悪》

今時々マスコミで取りあげられている、山口県で起こった殺人事件で、最高裁が高裁の決定を差し戻し話題になった事件がある。

面白いのはこの事件の加害者側に20名を超える弁護士がついた事である。

私はこの内容を、本来死刑になってもおかしくない事件に無期が下され、最高裁が高裁に審理のやり直しを命じた。と理解しているのだが、 どうやらこの事件に関わり、あるいは関わろうとしている弁護士はそうは見ていないらしい。

昔ある弁護士から、「弁護士がこんな事を言うのもおかしいが、弁護士はある面で社会的な必要悪だよ」と言う話を聞いた。

私も過去に何度か弁護士の世話になった事があるが、確かにしっかりした弁護士の存在はありがたい時がある。

しかし今回の事件を見ると、はっきりと正義感の強い者は弁護士にはなれないなあと考えてしまう。

要するに弁護士とは法を熟知した法廷職人に過ぎないのだ。

まあ最近はタレントになるために弁護士になったような輩もいるにはいるが。

 

《リンカーンも弁護士だった》

アメリカ合衆国の第16代大統領となったエイブラハム・リンカーンもかつては弁護士だった。

ところが彼は依頼者が正義に反すると判断すると、いくら金を積まれてもその事件を引き受けなかったと言うエピソードがある。

いまどきこんな弁護士もいないだろうが、しかしこれは彼が弁護士である前に正義を重んじる人であったことを物語っている。

リンカーンがアメリカの大統領としてどんな業績を残したかを知ればこの事はよく判るはずである。

 

《真実とは何?》

私の尊敬していた、今は故人となった弁護士が「法律的な事実と、本当の真実とは違う事がある」と私に話してくれた事があった。

そして彼はこうも言った「本当の真実は神しか知らない」と言い、また「私は法廷の中で神の存在を感じる事がある」とも言った。

その時私は、まさに百戦錬磨の老練弁護士だから言えた言葉だと感じ、その言葉の重みを受け止めた。

これらの言葉は、いかに真実であろうと、法廷でそれを裁判官に理解させる事の難しさを示している。

裁判員制度が普及した時に、果たしてこの制度が法と正義をつなぐ架け橋となるのだろうか?

 

《法と正義》

本来、法とは正義で無ければならない。

 

しかし現実はそうではない。

 

法を行う立場の者が不正を行う事が当たり前になっている。

昨日自ら死を選んだ閣僚がいたが、ひょっとしたら彼の中に目覚めた正義が彼に死を選ばせたのかも知れない。

でも、もしそうだとしたら、もっと死を選ばなければならない公人は数え切れないほどいる事だろう。

閣僚の中にだけではなく、多くの政治家や官僚にも、公務員にも、腐るほどある財団にも、 そして最近世間を騒がせたナントカ連盟などの類の中にも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年05月25日

経済的豊かさと倫理-2

《経済的豊かさと倫理観》

経済的豊かさのみを求めてその方法を考えると、お金を印刷するのがもっとも手っ取り早い方法である。

そして原価がタダのものを広く販売することが出来ると、これも手っ取り早く金儲けが出来る方法である。

今中国で起こっている多くの出来事は後者を地で行った実例と言えるだろう。

 

日本市場だけを標的にするならば、これも反日教育の成果と言えるのだろうが、今回この事件の波紋は世界中に広がり、 今後ますます中国政府は世界の中で難しい立場に立たされるであろう。

中国製のペットフードを食べた動物が、他の国で多数で死んでいるし、同様の被害がまだまだ出てくるだろう。

 

中国政府は、これを製造者の責任として処理しそれで済ますことが出来るのだろうか。

 

私はこの原因の大半が教育にあると考えている。

これは単に中国だけの問題ではない。

現実に日本で起こる事件にも共通性はある。

たびたび例に引いて恐縮だが、それがライブドアや村上ファンドの事件である。

高度の教育を受けたはずの人間が、平気で人をだましてぼろ儲けをしようとする。

彼らに共通しているのは、倫理観、道徳観の欠如である。

 

そしてこれは今の若い世代の人たちに共通した問題であると指摘できる。

戦前の日本の教育が良かったとは手放しで言えないのは衆知のとおりであるが、反面道徳教育では非常に効果があったと考えられる。 問題は道徳教育を軍国主義に絡めたところにあった。

だから戦後、アメリカは日本の教育を解体してしまったのである。

 

結果、今の若い人たちの多くはうわべだけの道徳教育しか受けていないし、それも差別をなくすと言う建前のもとに権利を重視し、 義務を伏せた偏向した教育である。

 

金儲けは悪いことではない。

幸福は金では買えないが、経済的な豊かさが欠けていては幸福になることは難しい。

 

日本は法治国家だというが、法律で全てが解決できると思っているまともな人間はいないだろう。

特に経済的犯罪は法律の隙間が端緒になる事が多い。

 

多くの企業でコンプライアンスを問題にしなければならないのは、法律を守る事が難しくなっているからである。

自由経済は競争社会であるが、競争には必ずルールがある。

 

また人類には人類共有の意識と法則(ルール)がある。

 

ルールを無視すると、食品に毒が入ったり、人をだまして金を集める輩が台頭するのである。

これは本来廃棄する原料を再利用して商品にする企業とは、程度の差だけでしかない。

 

自分さえ儲かればと平気で仲間さえ裏切る輩が一人勝ちし。

ろくでもない商品を売り方だけで売っている企業がある。

またコンサルティングと言う名目で、その売り方を指導する輩がいる。

もっとも企業倫理や経営道徳を指導するコンサルタントなどに、誰も金を払ってくれないだろう。

 

ひとごとではなく、これは我々一人ひとりが自分の仕事や価値観を点検し、誰からも後ろ指を刺されないだけではなく、 自分の関わるビジネスを通して社会に貢献でき、さらにそのビジネスを成功させる事を目指す必要があると思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

posted by オリエンタル・メソッド at 11:52| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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