2007年10月10日

聖徳太子ツアー2

《法隆寺付近散策》

9月17日、明日香を離れて次は一路法隆寺に向かう。

明日香から法隆寺まではそんなに遠い距離ではないのだが、祭日のせいか道は混んでいた。
車を売店の駐車場に止めて500円の駐車料金を払うと、その店で1,500円以上の買い物をすると駐車料金が返ってくると言うので、 それにつられてその店で昼食を摂る。

私は実は1週間前にもこの法隆寺(http://www.horyuji.or.jp/) に人を連れてきていたので、今回は見て回るコースを考えて見た。
特に当日は修学旅行の生徒が大量に来ていたので、これに巻き込まれないようにとも思い、先ずは回廊に囲まれた西伽藍に入り、金堂、五重塔、 講堂などを拝観する。

ここで一旦回廊の外に出て大宝蔵院に入る。
ここには法隆寺の寺宝が(夢違観音像(白鳳時代)・玉虫厨子(飛鳥時代)・金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)、 百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など)が展示されているので、十分な時間をとって拝観する。
中学の歴史で学んだ仏像などがじかに見られるのがうれしい。


次いで一旦法隆寺から離れて中宮寺(http://www.horyuji.or.jp/chuguji.htm) を訪れる。
ここでは池の中に建てられたコンクリート造りの新本堂が目玉らしい。
また本堂は改修工事中で、そちらの方は一切拝観などが出来ない状態だった。
でも拝観料は値下げされていなかった?

中宮寺の新本堂
池の中に建てられた新本堂

この新本堂の中にはアルカイックスマイルで有名な弥勒菩薩や、 曼荼羅で知られる天寿国繍帳が展示されているのだが、いくら火災を憂慮したとは言え、このコンクリートの新本堂はいただけない。
昭和43年の建設と言うことだが、法隆寺をはじめとして、法起寺、 法輪寺など周辺の寺院とのバランスを考えると私はかなりチグハグさを感じた。
この中宮寺は聖徳太子の母君である穴穂部間人皇后の御願によって、 太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建されたとの事であり、尼寺との事であったが尼さんの姿を見ることは無かった。 きっと暑いので涼しいところにいるのだろう。

次に中宮寺から徒歩で20分ほど離れた法起寺に向かう。
9月半ばとは言え、真夏と変わらない日差しとコンクリートの照り返しの強さには参った。
今度来るときは時期を選ばなければならない。

田んぼの中の法起寺

法起寺が見えて来た

『遠くて近きは男女の仲、近くて遠きは田舎の道』と言うが、 まさに見えているのになかなか近づけない法起寺(http://www.horyuji.or.jp/hokiji.htm) だった。

 この法起寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説したという岡本宮を寺に改めたものだとされる。
聖徳太子建立七ヵ寺(法起寺、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、葛城寺;不明確で現在は無い)の一つにかぞえられてる。
この寺は珍しく境内に入るのにお金は取られなかったが、宝物殿(収蔵蔵)の拝観料が必要との事だった。

これには入らないで次の法輪寺に向かう。

法輪寺(http://www1.kcn.ne.jp/~horinji/index.html) は太子の病気平安を祈願して建立されたとされる寺。

法輪寺三重塔

三重塔

 

法輪寺を後にして、再び法隆寺に戻る。

今度は東伽藍の夢殿を拝観に行く。この夢殿は行信僧都という高僧が、太子の遺徳を偲んで天平11年(739) に建てた伽藍の中心となる建物で、八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と言われる救世観音像(飛鳥時代)が安置され、 その周囲に聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿を修理した道詮律師の塑像(平安時代) などがも安置されている。

夢殿

 

そして法隆寺を後にし、最終予定地であった大阪府南河内郡太子町にある、叡福寺に向かう。

ここ叡福寺(http://www.y-morimoto.com/s_saigoku/s_saigokuK3.html ) (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E7%A6%8F%E5%AF%BA) は聖徳太子の墓所のある寺。
リンク先を探そうと検索しても、何故か公式ホームページが見当たらない。
この寺の特徴は、境内にある塔や金堂などは寺院の管理であるが、聖徳太子の御廟については宮内庁の管轄であると言う事。
また聖徳太子を祭ると言う事よりは、どちらかと言うと霊園の経営とこれに付帯する事業が中心と言う印象が強い。
いわば霊園管理業が中心の事業のようであるし、 またこの霊園建設にちなんだ贈収賄事件では複数の逮捕者が出たり2名の自殺者がでたりした事も、 聖徳太子の墓所の寺としては末代に残る恥とも言うべき歴史的な汚点を残している。
太子町と言う町自体も、聖徳太子の墓所にちなんだ町であると言う自覚のようなものは全く無さそうである。

もっとも今まで回ってきた太子関連寺院のように、境内に入るのに拝観料を取ると言う訳でも無いが、 例え拝観料を取っても他の太子関連寺院のように大勢の観光客が訪れる要素はない。
聖徳太子を慕う日本人は全国に沢山いるのに、何故太子の墓所のあるこの寺だけが栄えていないのか、経営者? にはもっと真剣に考えて欲しいものである。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年10月01日

月が替わって

《郵政民営化のこと》

10月になった途端にうっとおしいニュースが放送される。

ガソリンの値上げは、「まだ上げるの」と言う感じだが、ミャンマーの一件だって日本の国力と交渉力が問われる問題で、 これでアジアの野蛮な後進国に金だけ取られてどれだけなめられているかと言う事実が露呈するかも知れない。

この件だって用心棒のアメリカには圧力をかけさせないつもりなのだろうか?
これがアメリカのプレスが同じような状況で射殺されていたとしたら、アメリカはどう対応したのだろうか、甚だ疑問に思うところだ。

ところで10月から郵政民営化が実施されたそうだが、一体この民営化によってどれだけ国民に利益があるというのだろうか?

私に言わせると、単純に振り込み料金が大幅に上がると言う点だけ取っても民営化は不要である。
小泉さんと、郵政民営化に賛成した自民党議員どもは全員国賊である。


どうしても民営化が必要だと言うのなら、もっと他に民営化しなければならない所がいっぱいある。

先ず国の多くの機関を民営化して、不要な税金の浪費を抑えれば良い。

枡添さんがいきがって社保の問題に取り組むと言っているけれど、 本当に郵政が民営化して良くなるのなら社保庁もぐずぐずしないでさっさと民営化すれば良いし、 可能なところは行政の業務だってみんな民営化すればよいのである。

先ほどのミャンマーだって、日本だって実は国民を虐げている点ではあまり変わらないような気がする。

命に実害が無いと言うだけで、国民から税金を搾り取って好き勝手に使う輩がいる。
足らなければ何かと理由をつけて毟り取る方法を考える。官僚と言う人種は実にこう言う事が得意なのである。

政治家や官僚や公務員の地位を利用した犯罪が無くならないのは、こう言う人種の価値観が偏っているからに他ならない。
みんながそうではないと言う反論もあろうが、それは公務員側の論理に過ぎない。
結果が国民にとって良くなってこない限り、現在の政治や行政は全て見直されなければならない。

公務員犯罪の抑止には、公務員が地位を利用した犯罪を犯した場合は死刑を最高刑にする。
一見中国的だが本当はそれくらいの厳罰を持ってしても構わないと思う。そうでもしなければ彼らの価値観から大きな甘えは追い出せない。

一部のまじめな公務員さんには申し訳ないが、一体どれだけの公務員が、 国や地域を良くしようと心から思っているのだろうかと思わざるを得ない。

あるのは先ず自分の利益であり、いかに楽をして出世をして人生を過ごすかと言う点に目標が集約されているとしか思えない事が多い。

もちろん国民全体のモラルの低下は否めない。この点では民間でも同じ事が窺える。
性根の腐った人達が国を治め或いは経済をコントロールしている、大人は子供達から信頼されなくなるとともに、 そう言う大人をモデルにした子供達が育って、次の社会を担っていく。

やはりどこかで平成の世にも維新が必要なのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年09月18日

聖徳太子ツアー1

《聖徳太子と私》

最近になって、何故か聖徳太子の事が気になりだした。

何故かと言うのはよく判らないが、元々私は父の仕事の関係で聖徳太子の墓所のある寺で生まれて、幼少期から児童期を過ごした。

父は聖徳太子の研究者でもあり、聖徳太子に縁のある学校で教鞭を取り、聖徳太子に関する研究論文を多数残し、 そして没後も聖徳太子の墓所のある寺の霊園に眠っている。

第2次大戦中、父は陸軍では研究職にあったが、終戦後聖徳太子研究のためにその寺に住み移った。

私の両親は結婚後も長い間子供に恵まれなかったが、その寺に住むようになって私が出来た事で、私は幼児期によく周りの人達から 聖徳太子の申し子≠ニ言われていた記憶がある。

両親の墓がその寺にある事から、墓参の都度聖徳太子の墓参をするのが当たり前になっているのだが、 何故か最近特に聖徳太子の事が気になることが多くなり、自分の書庫から聖徳太子に関する本を引っ張り出してきて読み出すようになった。

そのうち、ハイパーレイキ≠ニ聖徳太子とに何かの関連性があるような気がしてきたのである。

そこで少し前から太子にゆかりのある寺を回って見たいと言う気持ちが募り、どの寺院を回るかをピックアップして計画を立てていた。

また知人で太子に興味のある人がいたので、声を掛けると二つ返事で乗ってきたので、その知人と9月17日に聖徳太子ツアーを決行した。

 

《先ずは飛鳥から》

同行者のMさんは大阪市内の人で、奈良方面のことはよく判らないらしく、奈良に行くなら室生方面にも連れて行けと言う。

やむを得ず朝早く富田林を出発する事にして、Mさんの到着を待った。

ところが6時30分過ぎに到着したMさんは、 今回のツアーの主な目的地と室生方面が距離的にかなり離れている事を電車の中で始めて知ったという。

そこで室生方面は止めて飛鳥方面の太子関連寺院から始める事にした。

そうなると富田林から飛鳥までは近い。

すでに7時30分頃には明日香村に入っていたのであるが、考えて見ればこんな時間にどこの寺も門を開けていない。

唯一飛鳥寺(http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukadera.htm) が開いていたのでとりあえず境内に入った。

飛鳥寺

この中に飛鳥大仏が入っているらしいが、朝早いので大仏さんはまだ寝ているらしい。

 

次にMさんのリクエストで、太子とは関係ないが同じ明日香村の山奥にあるとある寺を訪ねる事になるのだが、なんとその寺が地図に無い。

なんとかナビで見つけたのだが、そこに行くためのルートが出ていない。

やむを得ず、それらしい道を探して林道のようなところに入り、 途中で車を置いてまたそこに行き着きそうな古道を見つけて山に分け入ることにする。

古道入り口

古道の入り口

古道の途中

古道の途中

地図にも出ていないし、また本当にこの古道で行き着けるのかどうかも判らない、 そこでたまたまバッグに入っていたPDAについていたハンディナビで現在位置を確認して見ると、 道は出ていないのだがポツンと目的の寺の名前が出ている。

どうやら間違っていないようなのでそのまま進む事にする。

古道に入ってから30分以上は下りっぱなしだったが、 眼下に寺の屋根らしいものが見えてきた時は少しほっとした。

明日香村を見下ろす

明日香村を見下ろす

さんざん古道を歩いて行き着いた寺だったが、着いて見るとどうやらもっと楽な道があったようで、 住人のらしい車が止めてあった。

しかし非常に風景の素晴らしいところであり、風水的にもまさに四神相応の地である。

明日香村の繁栄の礎は案外この風水的なところにあるのかも知れない。

再び古道を登り、車に着いた時はかなり疲れていた。

なにせ予定外の古道歩きで、心の準備も何も無い。

 

《明日香と言えば》

明日香村と言えば避けて通れないのが石舞台古墳である。

同行のMさんは初めてだと言うので、石舞台に立ち寄るとなんといつもは無料の駐車場が自転車専用となり、 否応なく有料の駐車場に誘導される。どうやら9月16日と17日は明日香村上げての特別なイベントがあるらしい。

という訳で石舞台古墳を訪れる。

石舞台

石舞台古墳

とにかく暑い日だったが、それでも明日香には秋の気配が訪れて、石舞台の周辺にもトンボが飛び交っていた。

 

石舞台を後にして、次は太子の出生地と言われる橘寺(http://www.y-morimoto.com/s_saigoku/s_saigoku10.html) を訪れる。

ここは恐らく子供の頃に父に連れられて来たはずなのだが、殆ど記憶が無いのでとても新鮮な気分であった。

ここで先ず最初のハイパーレイキ≠ニ関連したものに出会う事になった。

三光石

三光石

上の写真は太子が勝鬘経の講讃を行った際に太子の冠から日、月、星の光が輝いたとされる三光石と、 下の写真は

三光石の横にある梵字の阿の形をした阿字池。

阿字池

阿字池

この三光に関しては、ハイパーレイキ≠ノおいても非常に重要な意味を持つ。

 

この橘寺を最後に明日香を後にして、次の目的地である法隆寺のある斑鳩地区に向かう。

 

 

 

 

 

 

 

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2007年09月04日

人生は選択の連続です

《選択する事》

考えて見ると人生は選択の連続である。
右に行くのか左に行くのか、と言う人生の岐路に立たなくても、食事時に食卓に並んだおかずですら、何から手をつけるかと言う選択から始まる。
決められなければ飯も食えないのである。

例えば私のハイパーレイキ(R)のセミナーを受講していただく方だってそうである。
ハイパーレイキ本部のホームページは広告をしていないので直接入って来れる確率は低い。
レイキのホームページとしては恐らく日本最古だと思われるので、登録順に表示されていた昔はすぐに見つけることが出来たが、 今はSEOだのオーバーチュアーやアドワーズだのと上位表示にお金をかけなければならなくなってきたので、 ハイパーレイキ(R)のページに行き着くにはどこかのリンクで来るか、或いは直接ハイパーレイキで検索しないと行き着けない。
また沢山あるレイキのホームページを比較した上で、 ハイパーレイキ(R)を受講すると言う決断に行き着くまでは何らかの決定要因があるはずである。

そのせいか私のセミナーを受講される方には共通した何かがある様に思える。
それが何かと言うのはよく判らないのだが、 数多くのレイキのページからハイパーレイキ(R)の私のセミナーを受けようと決断させる共通した何かが確かにある。

話は変わるが、私は時々人に本を薦めたりまた何かの教材を薦めたりすることがある。場合によってはこれが健康食品であったりする事もある。
これは私から見て『今この人にはこれが必要だな』と言う確信があるからである。
ところが多くの場合、これが相手に伝わらない場合が多い。
よしんば私の薦めを受け入れてその本を購入しても、購入しただけで読んでいなかったり、 或いは本を貸してあげても読まないままで置いてあったりする。
だから私はあまり最近人にそういう事をしなくなった。
そして最近何故そう言う事になるのかについて考えて見た。
答えは簡単であった。
要するに私から見たときには、今この人にはこれが必要だと思えても、当の本人にはそれが必要かどうかも判断できないのである。
従って目の前に自分の人生を左右するような有益な情報や方法が与えられても、 本人がそれを重要だと気づくだけのそれなりの目的意識や動機付けが無ければ、 せっかくの私の推薦図書やアドバイスや或いはプレゼントは何の意味も持たないばかりでは無く、単なるおせっかいで終わるのである。

これを先ほどの選択と言う話に当てはめて見ると、 その人が何を選ぶかはその人の価値観や目的意識などを決定要因として決定されると言う事になる。
そして多くの場合、それらの決定要因は目先の事が優先されている事が多いと考えられる。

もちろん私の周りにももっと先を見ていたり、或いは私の言う事を信頼しその価値を十分理解し、そして活用してくれる人もいるが、 逆にそう言う人は身近な知人には案外少ない。
こう言うのを灯台下暗しと言うのかも知れないが、身近なだけにありがたみが感じられない、或いは価値が判らないのであろう。

ともかくその人が明確な目的意識を持ち、強力なモチベーションに動かされている時は有益な選択が出来る確率が高くなる。
反対に目標が漠然としたものであったり、 或いは何の目標も持たずに日々に追われて毎日を送っている場合は選択の結果もそれなりである事が多い。
また前者の場合は入ってくる情報も価値の高いものが多いが、後者の場合は一見チャンスに見える情報でも落とし穴につながる事が多い。

何か大切な事を選択しようとする時、すぐに決断しようとするのではなく、一旦今の自分がどういう状態にいるのかを見直してから決断する。

そうするとひょっとしたら自分はまだそれを決断できる状態ではないことにも気づけるかも知れない。

こう言う習慣をつけるだけでも良い決断ができる可能性が高くなることだろう。


 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年08月28日

再び犬の散歩の事

《犬の散歩は社会悪だ》

確か去年のブログにも、犬の散歩で糞を撒き散らす飼い主が多い事を書いた。

これは全ての犬の飼い主に当てはまる訳では無く、ちゃんと糞を持ち帰って自宅で適正に始末している人も沢山いる訳である。

ところが犬の散歩中の小便についてはどうだろうか?

今朝のニュースで犬の小便が原因でカーブミラーの根元が腐食して倒れ、子供が怪我をしたと報道されていた。

果たして日本国内で、犬の散歩中に小便を持ち帰る人がいるだろうか?

先ずいないだろう。

しかし確実に毎日日本中で犬の小便はまき散らかされている。

 

《私も犬は大好き》

こんな事を書くと、「あいつは犬が嫌いなんだろう」と言われるかも知れない。

ところが私は大の犬好きなのである。

昨日も子供と近所に出来た新しいペットショップにウサギを見に行ったのだが、私は柴犬のケージの前で釘付けになったしまった。

元々和犬が好きで、小さい頃から犬猫と一緒に育った私としては、本当は犬が飼いたいのである。(猫は子供がアレルギーなのでだめ)

幸い住んでいるマンションはオーナーが寛大な人でペットはオーケーなのだが、散歩の手間や、 留守にするときの事を考えて飼わないことに決めている。

そして私はいくら犬が好きでも、 アスファルトやコンクリートに犬の小便を垂れ流しにして散歩させるような飼い主にはなりたくないのである。

 

《犬の小便垂れ流しは犯罪だ》

人間が立小便をすると確か軽犯罪になったと思うのだが、犬の小便は何故か犯罪にならないようである。

しかし全国でカーブミラーが倒れてけが人が出だすとなると、たかが犬の小便と笑ってはいられない。

ガードレールだって、根元が腐って倒れるかもしれないし、犬の小便に定番の電柱だって化学反応か何かでコンクリートが腐食して、 日本中の電柱が傾きだすかも知れない。

やはり犬の大便放置は飼い主が懲役刑で、小便は1万円程度の罰金刑くらいにしないと、 今のモラルの欠如した飼い主達の心がけは改まらないのだろう。

法や条例で規制してくれたら、ペット専用のトレーニングジムが出来てきて新しいビジネスチャンスも生まれるだろうし。

警察も軽微な交通違反を物陰に隠れて取り締まって点数を稼ぐより、 早起きして犬の散歩を取り締まった方が効率よく稼げるようになるのに、と思うのは私だけでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年08月16日

超高層建築と気

《超高層建築》

最近は都心で新たな建築ブームが起こっているようだ。

それも超高層マンションなどが多いようで、東京はもとより大阪でも市内あちこちで馬鹿みたいなのっぽビルが建築されている。

中東のドバイあたりでもすごい超高層ビルが建てられていると言うから、ひょっとしたらグローバルなブームなのかも知れない。

確かに超高層と言うのは土地活用の面では有効な部分も多い。

また周辺には多くの空地を要求されるから、当然都市の緑化などにも貢献があるのだろう。

しかし住空間として考えたときにはどうなのだろうか?

 

《人の住む限界点》

都心の超高層マンションの高層階と言うのは一種のステータスになるらしい。

しかし数年前にどこかの週刊誌で特集していたのだが、超高層マンションの上層階に住む主婦に引き篭もりの傾向が出るとか、 子供の情緒不安定が多いとか言う記事があった。

そして欧米では住居に関しては徐々に中層、低層化していると言う報告も出ていた。

にも関わらず日本では都心部に超高層マンションが増加していると言うのである。

そういえば欧米ではダムを壊して、出来るだけ自然に近い状態で治水できるように改良している国もあると聞いたが、 日本では全くそう言う動きはない様である。

せいぜい計画中のダムを凍結するとかしないとかのレベルだろう。

 

住空間としての超高層建築物には何故高さの制限を設けないのだろうか?

それは人間が快適に、安定して、かつ心身ともに健康に居住できる条件に高度≠考慮していないからなのである。

確かに高度だけで言えばアンデスやチベットの高地に生活している人もいるのだが、そう言う高地に居住する人と、 超高層マンションに居住する人とは条件的に全く違う。

何故かと言えば、それは地面からの距離の違いなのである。

人間は農耕民族や狩猟民族を問わず、人類の発生以来大地に密着した生活を送ってきた。

だからこそ高いところへの憧れも生まれてきたのだろう。

 

しかし科学的に解明されていないだけで、地上からどれだけ離れて生活すると、どういう異常が、 どういう確率で発生するかと言うような研究が殆どされていないようなのである。

先の主婦の引き篭もりや子供の情緒不安定のような事が、もっと沢山データとして取られ発表されていれば、 みんなが真剣に考えるのだろう。

 

例えば『地上30階以上に5年以上、かつ1日8時間以上生活していると、癌の発生率が通常の3倍以上になる』 と言った具体的なデータである。

 

こう言うデータがきちっととれて公に発表されれば超高層マンションに憧れる人はぐっと減少するだろうし、 当然売れなくなるから建築する業者も控えるだろう。

当然人が快適に住める地上からの高度には限界点と言うのが存在するはずなのである。

まともな建築士ならこう言うことに気づくはずなのだが、施主はそう言う事を言う建築士を嫌がるだろう。

まあ山の自然の中に、醜悪なコンクリートのかたまりの要塞を作るような建築家が喜ばれるご時勢だから止むを得ない事なのかも知れない。

 

《超高層建築と気=t

気≠ニ言う視点から住空間の高度を考えると、地面から離れれば離れるほど環境は悪くなるといわざるを得ない。

大地の発する気=Aすなわち地の気≠ヘ植物や農作物を育み、家畜を育みそして我々人類をも育んで来たのである。

それも現在では大地がコンクリートに覆われている事から、その地の気≠フ恩恵もかなり低下してきている。

 

そこに地上何十階と言う様な住環境が作られ、そこで人間が生まれて育っていくような事が当たり前になっていくと、 今まででは考えられないような現象が起こってくることは疑う余地が無い。

よくテレビなどで長寿村と言われる地域の事が紹介されるのだが、多くの場合それらは農村であることが多い。

間違ってもビルの谷間の地域であったり、どこどこの団地であることは無い。

 

つまり大地と自然の順行に結びついた生活が人を長寿と健康に導くのであって、 自然から離れれば離れるほどその結果は悪くなっていく事が考えられる。

 

少なくとも私は宝くじがあたっても超高層マンションは絶対に住まない。

 

 

 

 

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2007年08月03日

人生航路

《太平洋一人ぼっちに見る目標達成の法則》

昨日ケーブルテレビで、市川昆監督、石原裕次郎主演の『太平洋一人ぼっち』を観る機会があった。

ちょうど自分のトレーニングの予定時間だったのだが、たまたまついていたテレビに石原裕次郎が出ていたので、何気なく観ていると、 私の知っている裕次郎の映画とは全く違った流れなので、ついつい見入ってしまった。

ストーリーは裕次郎扮するヨット好きの青年が、親の勧める進学を拒み、家業を手伝いながらコツコツと金を貯めてヨットを別注し、 サンフランシスコを目指して単独航海に出ると言う内容だった。

 

つい見入ってしまった原因の一つは、裕次郎が大阪弁のセリフをしゃべっていた事にもあるのだが、ストーリーが進んで行く内に、 主人公が大阪出身の堀江 謙一さんである事が判って来た。

時代は1962年である。(映画では1963年になっていたように思ったが)

ちょうど小学生だった私は、テレビで堀江さんがマーメード号に乗って単独で太平洋を横断したと言うニュースを見た記憶もあり、 また殆ど裕次郎が一人で演じていると言う珍しさもあって、殆ど画面に釘付けになっていた。

 

小さなヨットで大阪港を夜陰に紛れて出航するまで、彼はコツコツと準備を整えて行く。

太平洋を横断するために必要な知識を吸収し、ヨットの操舵技術を学び経験を積む。

また航海に必要な機器を少しずつ整えて行く。

そして航海途中に起こりうるあらゆる場面を想定して、その対応の準備をする。

また航海の日数を割り出し、途中の生命維持に必要な物や、生活に必要な物を事細かにリストアップして整えて行く。

航海の途中何度も嵐や台風に見舞われるが、何とかそれらを乗り切り、その難局を乗り切るごとに、彼には余裕が出てくる。

これこそが経験のすごさなのだろう。

 

やがて目的地のサンフランシスコ(http://www.sf-japan.or.jp/) に夜中に到着するのだが、ここでも彼は慌てず、安全に寄航出来る様に朝になるのを待つのである。

 

妹役の浅岡ルリ子の可愛さ(当時)や、田中絹江、森雅之、などのキャストもそうなのだが、 私は始めて石原裕次郎の役者としての素晴らしさを観たように思った。

また日本にもこんな映画を撮れる人が居たのだと言う市川昆監督に対する敬意も持った。

 

本当にくだらない、日本の恥をさらすような映画を撮って巨匠と呼ばれている人間がのさばっている事や、 調子に乗ったお笑いタレントが面白半分に映画を作り、それをマスコミが面白おかしく取り上げる事を普段から不快に思っていただけに、 こう言う映画を撮れる監督が日本にももっと育ってくれば良いと思った。

しかし本題はそこにあるのではない。

 

この映画のストーリーそのものが、目標達成に至る原理原則を全て網羅していると言う点がすごいのである。

多くのサクセスストーリーが映画になっている。

しかしこの映画ほど目標達成のプロセスがシンプルに描かれているものも少ないだろう。

明確な目標を定め、周到な準備を積み重ね、いざ実現に向かった時には、その実現を阻む障害と命がけで闘っていく。

 

何度も自分を諦めかけながら、しかし結局は最後まであきらめないで目標に挑み続け、そして最後にはそれを達成する。

結局は最後まであきらめない者だけが勝ち残れると言う、明快な真理がそこに描かれている。

 

まさに積極的な人生とは航海なのだろう。

 

波に漂い、揉まれて翻弄されながら当てども無い人生を送る人もいれば、目標に向かって荒波を乗り越えながら人生を乗り切る人もいる。

同じ人生をどう生きるかは、その人の選択次第、心構え一つと言う事になるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年07月26日

潜在意識の働き-2

《潜在意識に振り回されるか、自分でコントロールするか》

潜在意識の働きは一見複雑にも見えるが、しかしそれはいたってシンプルなものでもある。

人間の行動の大半は潜在意識にコントロールされていると言う事実がある。

したがってその人の言動を観察すると、その人の潜在意識がその人の言動をどのようにコントロールしているかが判る。

例えばどうしてもやらなければならない仕事があったとする。それは収入にもつながらないし、 また自分の意に沿わない作業であったとするとなかなかその作業に取り掛かれない訳である。

これはちょっとした頼まれごとなども同様で、頼まれた時には深く考えないで簡単に引き受けたのだが、 いざやるとなると面倒くさくなったりしてズルズルとやらないままで時間が過ぎてゆくのである。

子供の頃の夏休みの宿題を思い出して見ればよく判ると思う。

 

こう言う場合にその人間が自律的であるかそうでないかがはっきりと見分けられる。

 

例えそれをやらなければならないと思いながら自分の中で、忙しいからとか、面倒くさいからとか、 何でこう言う事をしなければならないのか?と不満があるからと言った言い訳を繰り返してやらない人間と、例え忙しくて、面倒くさくて、 納得できないとしても、やらなければならない事であれば、嫌な事はさっさと先に片付けてしまおうと言う前向きな人間とに別れる。

その違いは前者は潜在意識に振り回された自己本位の自律的でない生き方の人間であり、 後者は積極的で肯定的で自律的な生き方の出来る人間と言う事になる。

 

この両者の違いはどこから来るのだろうか?

それは先ずその人間の信念や価値観が出来ているか否かと言う事になる。

これがすなわち生き方≠ニ言う人生と言う航路に欠かせない羅針盤≠ネのである。

ところが実際は自分の信念や価値観を明確に持っていると言う人間は非常に少なく、また持っていたとしてもその羅針盤 に狂いがあるととんでもない事になる。

こう言う人間がまかり間違って、人から先生と呼ばれるような立場に置かれると、周りに害毒を撒き散らす事にもなりかねない。

そしてこれらの信念、価値観と言った羅針盤は、全てその人の潜在意識にインプットされたプログラムに過ぎないのである。

私の周りにも多数の人達が、年齢層も幅広く、こう言う誤ったプログラムのままで生きている人がいる。

こう言う人達に共通した特徴は、他人から問題点を指摘されても、自分自身や自分のやり方を変えようとしないし、 例え一時的に変わってもすぐに元に戻ってしまうのである。

そしてもっと困ったことには、それらの人々は自分がそう言う潜在意識にインプットされたバグ(ゴミ) に支配されている事に気づかないでいる事が多いと言う事にある。

 

《精神修養は何故必要か》

肉体的な鍛錬が必要な事は恐らく運動嫌いで、普段全く運動をしない人にも判るだろう。

しかし普段から健康の為に運動を心がけている人でも、精神的な修養(トレーニング)が必要だと考えている人は極小だと思う。

そう言うことをする人は、特別な人であり、凡人の我々にはそう言うことは関係ない、と思っているかも知れない。

しかし私達が生まれてから今日までの間に外からの様々な影響(親、兄弟、教師、知人、上司など)により、 自分の潜在意識の中に積み重なってきたゴミ、すなわちよくないプログラムを修正し、自分が潜在意識に振り回される事なく、 自律的に自立して生きるためには、やはりメンタルなトレーニングは欠かせないものなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年07月24日

比べるものが無いと本当の価値が判らない

昨日、ここ何年か振りで大型のトレーニングマシンを組み立てることになった。

たまたま私がそのマシンの購入を知人に斡旋した関係から、組み立てもやることになった。

今までにも自分が使用する場合を含めて、何台かのトレーニングマシンやそれに類する機械を組み立てた経験があるのと、 もともとこう言う作業が好きなので、特に困難は考えていなかったのであるが、今回は今まで私が組み立てた経験のある機械の中では、 規模が大きいものであった。

 

大体こういうものを組み立てる時に起こるトラブルは予測できる。

@組み立て図面と説明書が不親切なこと。

A組み立てに使用するボルトやナットに不足があること。

B部材同士の接合部が一致しない場合があること。

大体この3点に集約されるようである。

尚、このマシンは台湾製と言う事であった。

 

このマシンを購入した知人に手伝って貰ってマシンを組み立て始めたのであるが、やはり問題は起こった。

先ず説明書と図面が判りにくいのである。

英文のものとこれをそのまま翻訳して和文に訳したものが付いているのだが、マシンが大きく高機能であるために、 部品数が膨大なのである。

幸いボルトの径は殆ど同じものに統一されていたのだが、 いかんせん長さの種類が多いために適当な場所に適当なボルトを持っていくことが大変なのである。

マシンの設計が不親切だと、さらにボルトの径にいくつもの種類があったりするので、 もっと大変なのだがそう言う意味ではユーザーが組み立てると言う事をかなり意識して設計されたマシンであった。

しかしAで述べたようにボルトには不足が出た。

これもあっては困る事なのだが、何故か多くのこう言うマシンの類ではおこりやすい出来事である。

 

もっと困ったのは、一緒に組み立てていた知人である。

きっと彼の中では完全な商品を期待していたのだろうが、残念ながらそうは行かない。

しかしトラブルに遭遇する度にぼやきだすのである。

 

挙句の果てに「こんなマシンちゃんと使えるのかな」と来た。

 

組み立ての過程にまで完全なものを要求するのなら、やはりもっと高額なそれも完成品を購入するしかないのである。

今回のマシンは多機能、他種目で他のホームユースマシンには付いていない、レッグプレスと言う種目までついていてそれで20数万円。

確かに5、6万円のパーソナルユースのマシンもあるが、品質は全く違う。

そして業務用になると、単種目でも数十万円から百万円以上もする。

私はそれが判っているからこのマシンを推薦した。

 

それが「こんなマシンちゃんと使えるのかな」と来ると「お前なんかに二度と協力するか」と思ってしまう。

それで完成して、ちゃんと動き出すと「やっぱり良い商品やな」と納得する。「勝手にしろ」である。

 

でも我々は日常的にこの知人と同じような事を繰り返しているような気がする。

要するにものの価値や人の価値と言うものは、比べるものが無いと判らないのである。

他人の花は赤い∞他人の芝生は青い≠ネどと言うように、 自分の持っているものや学んで身につけたものが本当に素晴らしいものであっても、 その真価が判らない為にまた違うものに飛びつこうとする人も多い。

また自分のそばに卓越して素晴らしい能力や、技術をもった人がいても、遠くにある、 他人の評価やマスコミの宣伝だけを基準にして別の人に憧れる。

結局ものを見る目、人を見る目と言うのは比較対象することから養われるのだろうし、未熟な人には未熟な判断や決断しか出来ない。

 

『無知は罪である』そして無知からくる疑い、批判や非難は己の愚かさを物語るだけである。

 

幸いハイパーレイキ(R)は、他のレイキを受講した方々から「受講して良かった」と言ってもらえる事がが多い。

比べる者をもった人達からの賞賛は、本当にありがたいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年07月20日

信頼と疑念について

《信用と信頼》

よく第三者に対する他人の評価の中で、信用はできるが信頼は出来ないと言うような話を聞く。

両者の違いを端的に表現すると、信用は表面的で信頼は内面的となるのだろうか?

 

この解釈を一応正しいものとして適応すると、人間には4通りのタイプがある、と言う仮説が出来上がる。

一つは信用も出来るし、信頼も出来る人である。(仮にこれをタイプ1としよう)

タイプ1の人は実はいそうでいないもので、特に周りに何らかの形で利害が絡んだ人間関係が多くなると、 ますます貴重な存在になってくる。

次が信用は出来ないけど信頼は出来ると言うタイプである。(仮にこれをタイプ2としよう)

これは結構多い。

つまり悪気は無いけど約束が守れない人とか、時間にはルーズだけど人を裏切るような事は決してしないと言うタイプである。

こう言う人は結構いるもので、私の周りにも顔が思い浮かぶ人が何名かいる。腹が立つ事も多いが反面可愛いところも多々あるので、 結局許してしまうのである。

三つ目のタイプは、信用は出来るが信頼は出来ないと言うタイプである。(仮にこれをタイプ3としよう)

こう言うタイプの人も結構いるもので、一見誠実そうに振舞いながら表面的にはちゃんとしているように見える。 ところが利害が絡むとルールを無視して自分の利害を最優先したり、何かと人に対しての疑いを露にする人である。

従って巧妙に嘘をついたりするのであるが、結局ちょっと調べればばれてしまうし、例え済んでしまった事でも、 つき通したつもりの嘘でも調べれられればばれるものなのである。

 

四つ目のタイプは実に強烈である。

ズバリ、信用はおろか信頼も出来ないと言うタイプである。(仮にこれをタイプ4としよう)

自分の周りを見回すと、絶対このタイプだと言う人は他人をどう悪く見てもせいぜい一人くらいである。

しかしこう言う人もいるのである。こう言う人は犯罪者か一歩手前の人で、言い方は悪いが人間の屑なのである。

もちろんこう言う人は百害あって一利無しなので、基本的に付き合ってはいけない。

 

《常識とルール》

世の中にはいちいちルールとして決めていなくても、常識や社会通念と言う共通の認識がある。

特にビジネスと言うものには商慣習と言うものがあるし、組織の中には組織の種類を問わず暗黙の認識と言うものがある。

しかしそう言う常識が通用しない世代、或いは通用しない特定の人がいる。だから厳しいルールを作らなければならなくなる。

ちょうど村上ファンドの村上氏が実刑になったけれど、まさにそれと同じことなのである。

飲酒運転の問題にしても、いまだに泥酔で運転して大きな事故を起こして掴まっている人がいる。

恐らく掴まって表面にでる人達は氷山の一角に過ぎないのだろうが、 しかしルールを決めても無視されるからますますルールを厳しくせざるを得なくなる。

 

本来タイプ1≠フ人間ばかりなら、細かいルールなど決める必要もないし、期限だってアバウトで済む。

ところがタイプ3≠フ人は口先ではルールに従うと言いながら、なかなかルールを守らないし、期限だって守れない。

そう言う人間が本当は周りを困らせているのだと思う。

 

そしてそう言う人間に限って、ほんの一面だけを見て人を疑ったり、ちょっとした問題を取り上げて揚げ足を取ろうとしたりする。

そう言う人間に共通する事は、ばれないと思うと平気で嘘をつくのである。

 

また自分が嘘をつくから、何かがあると先ず相手を疑ってしまう。

つまりその人達の潜在意識には、『人は人を騙そうとするものだ思え』と言うプログラムがインプットされているのだろう。

 

よく大阪の商売人は汚いと言うが、昔私が夜間の専門学校の学費稼ぎに関わっていた中古車やさんの業界には、 事故車をツギハギして黙って売るような随分ひどい業者がいた。

私はその前、大学生の頃には地元では老舗と言われる卸屋さんで運転手のアルバイトしていた事があったが、 そこは見事に信用を大切にする商店で、商売上では寸分の嘘も無かったから、これが自分の信用に対するビジネスモデルになった。

もし最初が立ちの悪い中古車屋さんだったら、それが私のビジネスモデルになったのかも知れない。

 

嘘も方便と言う言葉があるが、この方便が適用できるケースと言うのは、判断が難しい。

やはりばれた時に、互いに笑って済ませるものか、相手が真実を伝えるに相応しくない相手の場合に限られるのだろう。

 

『些細な事で人を疑う人ほど、本当は自分が嘘つきだ!!』どこかにこんな諺は無かったかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

posted by オリエンタル・メソッド at 19:24| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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