《祈りについて》
今回は祈りと言う行為とその意味について考えて見る事にした。
例えば初詣に行って神仏の前で手を合わせる事、通常はこれを〔祈り〕だと思っている人が多いようだ。
しかし初詣などでは〔お祈り〕と言うより、「○○が叶いますように」と言った、手前勝手なお願いを祈りだと信じている人も多いだろう。
私の大阪市中央区にある事務所の側に、少彦名神社と言う神社があって、これは元々医学、薬、
農業と何故かテキヤさんの神様として知られている。
この都会のど真ん中にある神社には、多くの人々の願いを込めた絵馬が飾られているが、さすがに医学の神様だけあって、
絵馬の内容は病気平癒に関する内容の〔祈願〕が殆どを占めている。
もっとも祈願と言う言葉があるくらいだから、お祈りとお願いは昔から一緒くたに使われている事が多いのだろう。
我々だって日常、神社仏閣で手を合わせる時は、気付いたら身勝手なお願いをしている事が多いから、昔から〔祈り〕には〔願い〕 が付随しているのが一般的なのかも知れない。
《ハイパーレイキと祈り》
ところで昔から『苦しいときの神頼み』と言う言葉があるように、「困った事が起こったから何とかしてくれ」
と言う様な不心得なお願いを神様は聞いてくれないことになっている。
この話は私も自分の『ハイパーレイキセミナー』の中で、よく例に挙げて話をするのだが、「何十年も疎遠になっている知人が突然尋ねてきて、
困っているから助けてくれとか、金を貸してくれと言われてもおいそれとは聞けないが、
普段から親しくしている友人が困った事があれば何とか助けたいと思うでしょ、神様だって同じ事じゃないですかネ」
なんて言う話をしているのである。
祈りに関しては様々な解釈があり、宗教的な側面だけを見てもその立場によって解釈は色々だと思われる。
また誤解を避ける為に言うと、祈りとは全て宗教的な行為ではなく、
宗教とは全く関わり無く存在する人間の本能的な行為の一つであると私は考えている。
また祈りの向けられる対象は、もちろん神仏などでは無く、天地そのものであり、大宇宙の英知であり、かつ大宇宙の意識である。
そしてハイパーレイキでは、シンボルと言うツールを用いて、この天地、 或いは大宇宙の英知や根源的な生命とのコミュニケーションを取る事が重要だと考えている。
これは神仏を否定している訳では無いのは言うまでもないが、ハイパーレイキではシンボルを通して『天、人、地』 と言う三才のコミュニケーションを実現する事を目指しているのである。
このような表現をするとかなり話がややこしく暗喩的であるが、この辺の話は判る人だけが判れば良いと思う。
要するにハイーパーレイキの考える祈りとは、シンボルを用いたコミュニケーションであると言う事を言いたいのである。